袴田巌さんが58年ぶりに「自由の身」になった。これまで、彼を「不自由な境遇」に追いやっていたのは「司法」のほか、マスコミにも大きな責任がある。深く反省しなければならない。
私も記者時代、警察・司法を担当したことがあるので、袴田さんの逮捕、死刑判決の過程を取材していたら同じ過ちをしていただろう。「犯罪情報」は、捜査当局が一手に握っており、自ら捜査しない記者は、その情報を信じないわけにはいかない。その際、その捜査が誤りかどうかを疑うことは、なかなかできないものだ。
しかも、かつては、「容疑者」段階では呼び捨てで、「容疑者は真犯人」という世論形成に大きな役割を果たし、それが、裁判段階で裁判官の心証に与える影響も多かれ少なかれあっただろう。
「袴田事件」は、まさにそうした「愚」の連続で、無罪の人間に対する死刑判決から長期収監につながったのだと確信している。
以上のような点を、今回、袴田さんが無罪確定した段階で、新聞各社は「反省と謝罪の弁」を大きく掲載した。西日本新聞は、「袴田事件」の記事はすべて共同通信からの配信を使っていた(一部は提携紙の中日新聞の記事を使ったか)ので、共同通信の「お詫び・反省」を前書き付きで目立つように載せた。
ところで、今回、「袴田事件」の静岡地裁判決(国井恒志=こうし=裁判長)は検察の「証拠捏造」を認めた。検察に対する「誤認捜査」を痛烈に批判した。
こうした場合、証拠を捏造した検察の行為は「犯罪」ではないのか。「袴田さん無罪」の判決理由の大きな柱として「証拠捏造」報道を知ったとき、私はまず、そのことを考えた。捜査当局以外の人が「証拠隠滅」した場合は「証拠隠滅等罪」が適用されて逮捕される。これは検察当局には適用されないのだろうか。
初の女性検事総長になった畝本直美さんは、発表された談話で「『捏造』断定には大きな疑念と不満がある」と。「袴田事件捜査」について、今後、改めて検証するとも表明した。
この談話は「何を今ごろ検証するのか」と批判したくなる。そのうえで、再審決定から初公判までの長い時間を考え、なぜ司法関係の時間は、こんなに長く掛かるのかという疑問も、いつものように抱いた。もっと迅速に裁判が進まないものだろうか。
今回の「袴田裁判」に関連して、司法改革が叫ばれているが、それがいつ動き出すのか、見通しはない。国民の疑念が多い司法が「国民本位」に改革されることを強く望む。それを「聖域」にしてはならない。
また、これを機に「死刑廃止」についての議論が国民世論になるように願う。先進国で死刑があるのは日本だけという「惨状」にもメスが入ればと強く希望する。