2024年12月19日

【余生私語録】第16回─韓国「戒厳令」そしてハン・ガン作品と金石範『火山島』を巡って=守屋龍一

◆韓国「戒厳令」6時間で解除、尹大統領への弾劾が可決
 ニュースを見て、まずはビックリ、そんな馬鹿な!と声が出てしまった。韓国「戒厳令」の経緯について、私の友人であり、ブログ<マガジン9>を主宰している鈴木耕さんが、簡潔なまとめをしている。紹介したい。
 <12月3日の夜、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が発した「戒厳令」は、無残な結末を迎えた。国会議員たちは急遽、議会に参集、その数190人(定数300)に及んだ。そして即座に戒厳令を停止させる議決を行った。
 国会前には深夜にもかかわらず、数千人の市民がつめかけ、銃を構える戒厳軍兵士たちの前に立ちはだかって抗議した。国会内では、議員の秘書や国会職員たちが、兵士の乱入を防ぐために、通路にソファや机を持ち出してバリケードを造った。
 かくして尹大統領の暴虐は、たった6時間で終焉を迎えた……。
 韓国国民は「光州事件」(1980年)などを経て、血と涙と多くの人たちの死で勝ち取った「民主主義」を、ふたたび血と死を恐れずに銃口に身を晒して守ったのだ。>(<マガジン9>連載337回・鈴木耕「言葉の海へ」12/11より)

 そして14日、尹大統領に対する弾劾が国会で可決された。弾劾の是非について、憲法裁判所が180日以内に判断し、弾劾が妥当と認められれば尹氏は罷免され、60日以内に大統領選となる。
 加えて韓国検察は尹大統領(職務停止中)に対し、内乱と職権乱用の疑いで捜査し、検察へ出頭するよう要請しているが、尹氏は拒んでいる。出頭要請に応じない場合でも、検察の捜査で内乱容疑が固まれば、裁判所に逮捕状を請求するという。

◆ノーベル賞の韓国人作家 ハン・ガンさん“戒厳の状況”に衝撃
 ハン・ガンさんは、ノーベル賞の授賞式に臨む10日、“戒厳の状況”に衝撃を受け、「あの夜、武装兵の銃剣を止めようとした人がいるのを見て、この勇気ある行動を、私は誇りに思っている」と語った。
 さらに自身が9歳だったとき、生まれ故郷の韓国南西部・光州で繰り広げられた、1980年5月18日から27日にかけての「光州事件」を思い浮かべたという。
 すでにハン・ガンさんは、その「光州事件」で犠牲者となった一人を、主人公のモデルにした『少年が来る』(井手俊作訳・発行クオン)を著わしている。「光州事件」とは全斗煥将軍らの暴政に抗議し、学生・市民らが民主化を求めて始めた反政府デモに、「戒厳令」を発して無差別に弾圧を加え2千人に及ぶ人々が死傷した。
 ハン・ガンさんの目線は、常に圧政に抗う人びとの心や行動に注がれている。彼女の長編小説『別れを告げない』(斎藤真理子訳・白水社)も例外ではない。今から76年前、すなわち日本が敗戦した後の1948年4月3日、済州島(チェジュド)で起きた「四・三(サー・サム)事件」を扱っている。
 米軍政下にあった朝鮮半島において、李承晩・傀儡政権は、南部地域(韓国)だけの総選挙を画策した。それに対し済州島の人々は、南と北を分断・固定化するとして反対し行動を起こした。それを軍・警察が弾圧し、3万人ともいわれる島民を虐殺した経緯を「通奏低音」において、生と死の緊張感を描き、重い歴史に迫った力作である。これも見逃すわけにはいかない。

◆忘れられない金石範『火山島』を巡って
 私にとって「四・三事件」といえば、金石範『火山島』(各巻箱入り全7巻・文藝春秋)が鮮明に浮かびあがる。まさに済州島で起きた大虐殺の「四・三事件」の顛末を、同島出身の著者が<火山島>という舞台にしつらえ叙述した長編小説である。
 あの「光州事件」が終わって3年、1983年6月15日に第1巻、最終の第7巻は1997年9月25日に刊行されている。なんと14年にわたる刊行だ。本文は8ポ活字で1頁が26字×24行×2段組、各巻平均450頁を超える。
 田村義也さんが全7巻を装幀、済州島を取り巻く海の波を象徴するように、「青海波」模様を箱の外装下地に敷き、雄渾な太明朝で書名と著者名を、各巻それぞれ色違いで浮かびあがらせている。私は刊行されるつど購入し積んでおいた。

 「四・三事件」について、盧武鉉(ノムヒョン)大統領が公式に謝罪した2003年、私は思い立って全7巻を一年かけ、しこしこ読み通した記憶がよみがえる。改めて本棚から引っ張り出し、最終巻の第7巻「あとがき」に目を通す。その中で金石範は、
 「……未曾有の大虐殺で終わった<四・三事件>は、韓国現代史の盲点であると同時に、その盲点自体がまさに現代史の核の部分であって、分断祖国の集中的矛盾の表現たらざるを得ない。
 四十年間、歴史の暗黒のなかに埋められ、徹底して隠蔽されて来た「四・三事件」の‶解放≠ネしには、韓国での親日派問題とともに韓国社会全体のほんとうの‶解放≠もたらすことができないのではないかと思う……」
 と綴り、さらにこう書いている。
 「半世紀近くタブーとなり、そしていまようやく真相解明の歴史の波が打ちはじめている四・三事件に対する私の基本的姿勢である。」(1997年7月時点)
 金石範さんは、1925年10月2日生まれ、今も健在で白寿99歳になる。

◆済州島を訪れて、夕日に輝く漢拏山
 読み通したからには、済州島に行くべしと、2006年12月上旬、2泊3日の旅程で訪れた。朝鮮半島の南端、海に浮かぶ小さな島。島の中央には漢拏山(ハルラサン)がそびえ、季節になると、たわわに「みかん」が実る。なんと「四・三事件」を起こした李承晩が、済州島の景色が気に入ったのか、厚かましくも南部に別荘を建てている。
 地元の通訳ガイドに、「四・三事件」を尋ねると、驚いた顔で「最近までタブーだったが、分断を乗り越えて、私たちのみかんを北朝鮮に送り続けています」と答えてくれた。国立公園の遠く上空にそびえる漢拏山が夕日に輝いていたのを思い出す。(2024/12/19)
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2024年08月19日

【余生私語録】第15回─藤原マキ『私の絵日記』が呼び起こした、水木しげるさんへの想い=萩山拓(ライター)

夫と息子の3人家族を描く名作
 <藤原マキ『私の絵日記』が、今年、米国の権威ある漫画賞「アイズナー賞」を受賞!>
 との情報に接し、あの作品がなんで今頃? と首を傾げた。さっそく書棚の奥にある、つげ義春さんの本の並びから、藤原さんの「ちくま文庫」を引っ張り出した。
 藤原マキさんは、漫画家・つげ義春さんの妻で、1999年に58歳で亡くなっている。『私の絵日記』は、マキさん41歳の1982年に北冬書房から、書籍として刊行されている。その後、学研M文庫を経て、2014年2月に「ちくま文庫」に収載された。
「私の絵日記」.jpg まず巻頭のカラー口絵8ページに惹きつけられる。本文に入ると見開き右ページに200字から数百字の文章、そして左ページにスミ1色で描いた素朴なタッチの線画が1枚、ホノボノとした雰囲気を醸し出す。
 息子との愉快な会話や散歩、夫婦ゲンカのこと、みずからの病や夫の精神的不調のこと...日々の想いを綴っている。さらに自分が子どもの頃に体験した情景を描いた絵もいい。巻末には、つげ義春「妻、藤原マキのこと」が収録されている。
 再読した今でも、<3人家族の風景>が鮮明に浮かび上がり、私たちの心に響く名作であるのを実感した。それが米国で評価されたのだろう。改めて第一の納得。

藤原マキさん『腰巻お仙』で活躍
 著者の藤原マキさん、どんな人物だったのか。本書のソデにある略歴に目を通す。1941年、大阪に生まれ、1945年島根県加茂町へ疎開の後、高校時代に帰郷。高校卒業後、関西芸術座で2年間演劇を学び、上京している。
『つげ義春日記』.jpg 東京では劇団「ぶどうの会」「変身」「状況劇場」などで活躍。なかでも代表的出演作には、唐十郎が主宰の紅テント「状況劇場」で上演された『腰巻お仙』の初代お仙役、『由井正雪』の夜桜姐さん役がある。「状況劇場」を退団してから、漫画家・つげ義春さんと結婚、一児をもうけている。
 『私の絵日記』で、彼女が描いた1975年頃から80年代前半の生活は、つげ義春『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)にも、合わせ鏡のように生き生きと描かれている。これも読んでほしい。もっともっとマキさんの人柄が、身近に感じられるようになる。これで2度目の納得。

「アイズナー賞」とは
 残るは「アイズナー賞」とは、どういう賞なのか。検索してみると、米国の漫画家であるウィル・アイズナーの活動に因み、1988年に賞が創設されている。36年の歴史を持つ現在、対象となる部門数は39部門にも及び、各部門は出版社および作家が選んだ作品の中から5名の委員によって作品がノミネートされ、最終的に業界人(出版社、作家、代理店、書店)による投票で決定される。
 その1部門である最優秀アジア作品には、毎年、日本の漫画家が選ばれているが、その中で2012年に水木しげる『総員玉砕せよ!』、2015年に水木しげる『コミック昭和史』が、2度も選ばれていることを知って、ビックリ! なぜビックリしたかは後で触れるが、現在はともに講談社文庫に収載されている。「アイズナー賞」の歴史に納得。

「つげ義春」は健在なり
 さて藤原マキさんの夫・つげ義春さんは、どうしているだろうか。現在86歳、老いの身にあれども、しっかり生活しているという。新作はないが、これまでの彼の作品には、どれも愛着がある。時に書棚から引っ張り出して目を通す。異常な猛暑をしのぐには、格好の<緑陰図書>である。
 いま私が手にしているのは、『つげ義春が語る 旅と隠遁』『つげ義春が語る マンガと貧乏』の2冊だ。ともに筑摩書房から、今年の4月と6月に刊行された。つげ義春へ過去にインタビューした際の喋りや対談をまとめた本だ。
 読んでいて、つげ義春さんと調布のつながり、そして水木しげるさんとのつながり、想いがどんどん膨らむ。

水木しげる『総員玉砕せよ!』への想い
 私が現役のころ、水木しげるさんの『総員玉砕せよ!』や『コミック昭和史』(全8巻)を講談社文庫に収めるため、調布の「水木プロ」があるお宅に通った月日を思い出す。
 そのとき手掛けた水木さんの講談社文庫2作品が、20年近く経て、これまた「アイズナー賞」を受賞しているとは、恥ずかしながら初めて知ってビックリしている。
 さて30年ほど前になろうか、1990年代も半ば頃だった。水木さん宅での思い出に戻れば、絵の扱いや装幀などの打ち合わせが一段落し、水木さんと雑談していると、内容が不可思議な体験や夢についての語りが飛び出してきて、なにか煙に巻かれるような感じのまま、時間がたつのを忘れるほどだった。
 そして私は水木さんを促し食事に誘うと、「調布には女性も店も、そんなに良いところはないよ、でも落ち着くんだな」と、笑いながら言う。近くのすき焼き店に行けば、旺盛に肉のお替りを頼む健啖ぶりには、目を見張ったものだ。
 いま私は猛暑の天を仰ぎ見ながら、「水木さん、天国から、あまり雷を落とさないでくださいね。づげ義春さんも驚くだろうから」と、呟いている。
「総員 玉砕せよ!」.jpg
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2024年08月08日

【余生私語録】第14回─<8・15>に臨み私の備忘ノートから拾う随想3つ=守屋龍一

母の<8・15>と私の胃カメラ写真
 私の母は2014年に白寿で亡くなったが、母が迎えた1945年8月15日の話から始めよう。
<その日はカンカン照り。夫は長野須坂の部隊にいて不在。留守を預かる浦和市常盤町の借家で聞いた玉音放送は、ガーガーという雑音入りで、よく聞きとれなかった。
 それよりも「死ななくてすむ」という安堵感で、5歳を頭に3人の子をひしと抱きしめた。町会長が日本の敗戦を住民に改めて告げて回った。その夜は残りわずかの配給の芋を蒸かし、玉蜀黍(トウモロコシ)の屑粉を湯で溶いてみんなで食べた>
 とつとつと思いを込めて語ったのは、2005年の8・15の朝だった。朝食を取りながら、私の質問に答えるように90歳の母が語る顔の表情は、今でも忘れられない。私は母の話を咀嚼しつつ、その日の昼前に予約していた胃カメラ検査で、近くの掛かり付け医へ出かけた。医者から渡された胃の写真には、2005.8.15の日付が印字されていた。(備忘ノート:2005/8/15より)

「丸山眞男」の横っ面をひっぱたく世
 2014年に生誕100年を迎えた丸山眞男は、くしくも敗戦の8月15日、82歳で生涯を閉じた。戦後日本が生んだ最大の知識人といわれるが、その軌跡はどうであったのか。
 学生時代に読んだ「超国家主義の論理と心理」には圧倒され、<軍国支配者の精神形態と無責任の体系>というキーワードは、目から鱗だった。その後、全共闘世代によって、戦後民主主義の欺瞞の象徴として糾弾され、時には「観念論的・傍観者的歴史観」との批判も高まった。
 福沢諭吉を「典型的な市民的自由主義」の思想家とする評価も、彼が勝手な読み込みによって造りあげた虚像だとする研究もある。
 さらにフリーターの赤木智弘は、陸軍2等兵として徴兵された丸山が、中学にも進んでいない1等兵から執拗なイジメのビンタを受けた体験に関連し、今の若者は、社会に出ればすぐ序列が決められ、一方的にイジメぬかれる。
 「戦争は、現状をひっくり返して『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれない、まさに希望の光」とすらいう。
 丸山は除隊後、広島で被爆。戦後、一貫して平和と民主主義を根源的に問いつづけた彼が、ひっぱたかれる世になった。どう考えたらよいのか。(備忘ノート:2014/8/17より)

戦後77年<8・15>を顧みるに大事な出来事
戦争の77年・平和の77年─2022年の現在から顧みるに、日本は明治維新(1868年)から敗戦(1945年)までの77年が「戦争の時代」だ。無謀なアジア・太平洋戦争に突入し、敗れたのち平和憲法のもとに歩んできた戦後77年は「平和の時代」である。
 しかし、いまその歩みに急ブレーキが掛けられている。専守防衛から敵基地攻撃にカジを切り、米国の核兵器を国内に配備し、日米で共同運用する「核共有」に向け、憲法9条をズタズタにする動きが強まっている。
 第2次岸田内閣が発足しても、統一教会との関係では閣僚20人のうち7人、副大臣・政務官54人中19人が接点を持っていた。また安倍政権の大軍拡・改憲シフトは継承し、コロナ感染拡大・物価高騰・賃金格差・ジェンダー問題などなど、山積する課題への取り組みは「検討する」のみ。まさに「検討使」内閣だ。
ベーブ・ルースと大谷翔平─8月16日は「ベーブ・ルース忌」だ。あの野球の神様≠ニいわれた米国の大リーガー、ベーブ・ルースが、今から74年前の1948年に53歳で亡くなった日。
 くしくもこの8月10日に、エンゼルスの大谷翔平投手が、「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」を達成した。元祖二刀流のベーブ・ルースが1918年に達成して以来、104年ぶりである。その快挙への賞賛は世界に拡がる。
 40歳になったベーブ・ルースは、戦前・1934年11月2日に来日している。米国大リーグ選抜チームの一員として、大凶作に見舞われた国内を巡回し全18試合を行った。日本チームは歯が立たず大敗した。
デッチあげられた松川事件─さて、もう一つ、今から73年前、1949年8月17日、松川事件が勃発した。当初から松川事件は、下山事件(7/6)、三鷹事件(7/15)と合わせ、国鉄労組への日米権力が共同した弾圧であり事件捏造の疑いが言われていた。
 1963年9月12日、最高裁は被告たちに無罪を言い渡した。裁判の流れを決定的に変え、無罪を勝ち取る経過には、新証拠の発見とともに、作家広津和郎らによる被告の救済支援活動をはじめ、学者・文化人、市民をも巻き込んだ国民運動の発展があった。日本ジャーナリスト会議も参加している。
 こうして振り返ってみると、「8・15」前後には、エポックメイキングな出来事が起きていたのだ。歴史を見つめ今を考える良い機会にしたい。(備忘ノート:2022/8/14より)
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2024年06月20日

【余生私語録】第13回─今村翔吾さんの『海を破る者』および書店活性化への奮闘=守屋龍一

蒙古襲来750年の今
「海を破る者」.jpg 今年は蒙古襲来─<文永の役>から750年。そのタイミングをとらえ、直木賞作家・今村翔吾さんが、『海を破る者』(文藝春秋)を刊行した。日本史上最大の危機である「元寇」に立ち向かう没落御家人の葛藤と奮戦をたどる壮大な歴史小説だ。
 かつては瀬戸内海の防備を固め、鎌倉幕府の源頼朝から「源、北条に次ぐ」と言われた伊予(愛媛)の名門・河野家。しかし今や一族の内紛で見る影もない没落ぶり。
 その当主・河野六郎通有が、ある日、人買いに連れられて伊予にたどり着いた「るーし・きいえふ」出身の女性・令那と朝鮮半島・高麗出身の青年・繁を引き取った。はじめギクシャクしていた3人の関係もスムーズになり始めたところへ、またまた元軍が「日ノ本」に侵攻してくるという話が飛び込んできた。
 同族の各家にわだかまる疑心を取り除き、河野家をまとめあげた六郎通有は、元の大軍を迎え撃つべく九州・玄界灘に向かう。六郎が率いる戦艦・道達丸を中心にして、元の大軍とのし烈な闘いは、<第六章 河野の後築地>から、本書の表題になった<第七章 海を破る者>のクライマックスにかけて一気に展開される。敵を打ち破る戦法の筆致は拍力満点、ページを繰る指も忙しい。

なぜ人と人は争わねばならないのか
 だが本書は、これで終わるわけではない。闘い済んで日が暮れた後、六郎は驚くような行動を取る。海に溺れる敗残の敵兵に対し、一人でも救うために船を提供するのだ。そこには河野一族に連なる一遍上人の踊念仏が、六郎の胸中を占めていたのは間違いない。
 この時代に爆発的に踊念仏が広がったのも、元寇による世情不安とも無関係ではないと思う。当時の疲弊した民の救いと希望であった一遍上人の踊念仏を、本書に描き込むのは、著者の訴えたい主題、「なぜ人と人は争わねばならないのか」への一つの答えを求めたからに違いない。
 私はロシアに蹂躙されているウクライナの民への目線とも重なるのを感じ取りながら、本書を読み終えた。

書店復興に注ぐ熱意
 さて今村翔吾さん、著書での活躍だけではない。町の本屋さんが消えていく現状を憂い、書店の活性化にむけて、獅子奮迅の努力を重ねている。4月27日、東京・神保町の書店街にシェア型書店「ほんまる」を開店した。これで3軒目。前に大阪府箕面市の「きのしたブックセンター」、佐賀県佐賀市の「佐賀之書店」を開いている。
 このシェア型書店「ほんまる」は、個人や企業、自治体が本棚を借りて「棚主」となり、その棚に思い思いの本を並べて陳列し、販売する新しいスタイルの書店である。今後、棚主同士の交流会を開くほか、棚主から独立し書店開業を目指す人の支援にも力を入れるという。
 ネットによる本の販売や電子書籍が浸透する現在、紙媒体の市場規模が急速に縮小し、とくに雑誌と紙コミックの売上げが低下、書店の経営に大きな影響を及ぼしている。全国で書店の倒産・廃業が進行している。
 日本出版インフラセンターによると、2023年度の全国の書店数は1万918店、10年前と比べて約3分の2に減少。年間で500〜600店が閉店に陥っている。出版文化産業振興財団が2024年3月に行った調査では、書店のない市町村は482、全国の4分の1が「無書店自治体」となっている。

次世代のために書店を残す
 こうした書店の危機を深刻にとらえ、今村さんは、自ら書店を開業するだけでなく、テレビ番組にも積極的に出演し、「書店の大切さ」を訴えている。さらに経産省が3月に設置した「書店振興プロジェクト」にもメンバーとして参加し、意見を述べ提言をしている。
 6月12日に開催の2回目の会議では、「若者こそ、佐賀駅に書店が戻ってきた時に1番喜んでくれた。町の書店は若者のためにあるべきだと思う」と指摘。また、神田神保町に自らオープンしたシェア型書店「ほんまる」では、出展者の30%以上が企業の製品紹介に利用、行政からの引き合いもあると紹介。
 「次世代のために書店を残すという、青臭いかもしれないが、この1点で出版界は繋がって変えていけなければ、滅んでも仕方ないのではないか。私は必ず今年が書店復活の元年になると信じている」と述べている。
 この6月14日には東京駅構内のグランスタ八重洲(東京・千代田区)の地下1階に、グランスタ八重洲店がオープンした。売場面積72坪。営業時間は午前10時から午後9時まで。八重洲ブックセンターは、今年初め、阿佐ヶ谷駅前の書店「書楽」が閉店した時にも、すぐ同店を救済するため八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店を開店した。町の書店が消えてゆく流れをストップさせようと、書店業界としての努力を示そうとしている。

 長年、出版社に勤務し本を作ってきた小生にとって、今村さんの奮闘には頭が下がる。何よりも「町の本屋さん」で本を選び買うのを楽しみにし、喜びとしていた者の一人として心から応援し、機会あるたびに私も「書店の大切さ」を訴えていきたい。(2024/6/20)
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2024年04月22日

【余生私語録】第12回─倉敷の街で見つけた古本屋に並ぶ「岡山文庫」の1冊=守屋龍一

瀬戸内海の東半分を巡る旅で
 4月上旬、夏を思わせる気候のなか、中国・四国を巡る旅に出た。といっても岡山まで飛行機で飛び、瀬戸内海の東半分を海に沿い、円を描くように時計周りする3泊4日の<夫婦旅>である。
 これまで訪れていない名所に行くため、岡山からは東へ行く幹線道路を使って瀬戸内の牛窓オリーブ園、姫路城、神戸「異人館」に行き、明石海峡大橋を渡り淡路島の各地へ。そして大鳴門橋の上から鳴門のうずしおを見る。さらに高松・栗林公園から瀬戸大橋を渡って倉敷へ。その途中での経過は省いて、ここでは倉敷での体験を披露したい。

倉敷美観地区そぞろ歩き
 倉敷の日中は22℃になるとか、もう午前から暑い。JR倉敷駅南口からまっすぐ、大原美術館などのある倉敷美観地区に向かう。桜散る倉敷川に沿ってそぞろ歩き。立ち並ぶ店を覗く。中橋を渡って倉敷考古館のわきを通り、本町郵便局の前に出る。左右に「本町通り」が伸びている。
 弧を描くような道筋の両側には、これまたカフェ、雑貨店、食べ物屋、ギャラリーなどが並ぶ。友人が、この通りに「おいしい岡山のブランド牛・千屋牛を出す店があるから寄ってみたらいいよ」とのアドバイスを思い出して探す。本町通りもはずれの方にあった。店の名は「有鄰庵」、だが本日は定休日で閉店、がっかり。

<蟲文庫>で見つけた1冊
 気を取り直し歩き進めると古本屋が目に入る。すぐに入ってみる。店名は<蟲文庫>。壁を取り巻いて、天井まで届く書棚や中仕切りの棚には、本がジャンルごとに分けてびっしり。また足もとにも本や雑誌が積まれている。
蟲文庫の店内3.JPG
<蟲文庫>の奥にある帳場付近

 時間はたっぷりあるので、メッケ本がないか書棚をじっくり見て回る。気になったのがズラリと並んだ「岡山文庫」。そのシリーズには抜けているのもあるが、300巻ほどはあろうか。
 いくつか気になった巻もあったが、倉敷ぶんか倶楽部編『森田思軒の世界─明治の翻訳王・ジャーナリスト』(岡山文庫274 税込み定価946円)を、600円(税込み)で購入した。全く未知の人物の仕事や生涯を知りたくなったからだ。
「私の小さな古本屋」.jpg <蟲文庫>の広さは8坪ほど。店主は中年?女性が、うず高く積まれた本の奥にある帳場に座っている。支払いの際、彼女と少し話ができた。この2月7日で開業30年を迎えたという。建物は築100年以上と伝わる民家で、しばらく前は煎餅屋だったのを全面的に改築して開店したそうだ。
 買い求めた文庫はハトロン紙の袋に入れてくれた。そこには墨で描いた<マヌル猫>と所在地の住所がスタンプされている。30周年記念のポストカードと栞も頂戴した。
 なお帰宅してから、<蟲文庫>の開業裏話やその後の日常を綴った、店主・田中美穂さんの著書『わたしの小さな古本屋』(ちくま文庫/2016年)があるのを知った。ここに掲載した本書のカバーにある木版カットは、<蟲文庫>の正面入り口から奥を描いている。

やっと味わった「ままかり」
 さて食べ損ねた千屋牛の代わりに、岡山といえば「ままかり」。食べられる店を探す。倉敷美観地区内には見当たらない。やっと地元の人のアドバイスを得て、「ゆうなぎ」という店に向かう。美観地区入口・交差点を渡って西に向かう道のすぐ左側にある。
 店に入ってメニューを見ると、「鰹と鰆の藁焼き定食」が目を引く。「ままかり」は? と尋ねれば、「瀬戸内定食」には、その小鉢がつくという。藁で焼いた新鮮な鰹と鰆の刺身も、「ままかり」の酢漬けも食べたい。それぞれに定食を注文してシェアすることにした。
 東京では「こはだ」を思わせる「ままかり」だが、小鉢に盛られた小さな2尾を、妻と1尾ずつ大事に大事に味わう。<まま(飯)をかり(借り)に行くほどおいしい>から、「ままかり」と名づけられた通り、端麗な味が口内に広がり飯が進む。

『森田思軒の世界』を読む
『森田思軒の世界』.jpg 帰路もまた「ももたろう空港」から羽田へ。1時間半ほどの機中で、購入した『森田思軒の世界』を読む。2011年10月20日発行、コート紙156頁・4部構成、活字は12ポ組、写真多数。
 その主要部は思軒の弟による伝記の復刻である。そこからは家族から見た思軒の姿がつかめる。また収められた思軒の随筆からは翻訳に対する考え方がストレートに伝わってくる。だが文体の漢文調などのせいか読みにくい。
 つっかえつっかえ読んだ感想は、思軒の早熟ぶりと周囲の嫉妬、政治を志したものの結局は文学を選択していく過程など、36歳の若さで夭折した「明治の翻訳王・ジャーナリスト」の気概には驚く。
 帰宅してから、いろいろ調べてみた。まず「岡山文庫」は発行所:日本文教出版の創立15周年記念事業の一環として1964年に創刊され、2021年までに324巻が発行されている。「倉敷ぶんか倶楽部」については、文庫の奥付に概略が載っている。それによると「1996年12月に発足、郷土・岡山の文化・歴史を掘り起こし、その成果を普及する団体」とある。
 念のため森田思軒の略年譜を付記しておこう(2024/4/22)

森田思軒:文久元(1861)年、岡山県笠岡村(倉敷市の西隣)に生まれる。慶應義塾、興譲館に学び、明治15(1882)年に上京。矢野龍渓が主宰の郵便報知新聞社に入社。中国各地やヨーロッパに特派され通信を投稿。
 明治29(1896)年には黒岩涙香に招かれ萬朝報に入社し、同紙を刷新した。さら翻訳家・批評家として活躍する。徳富蘇峰が主宰の「国民之友」にも論文・翻訳小説を寄稿した。退社後も多くの作品を発表し、「翻訳王」と評された。
 翻訳の代表作に、ヴィクトル・ユゴー『探偵ユーベル』『死刑前の六時間』、ジュール・ベルヌ『十五少年』(十五少年漂流記)などがある。岡倉天心、森鴎外、幸田露伴らとも親交があった。明治30(1897)年 に36歳で腸チフスを発症して死亡。

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2024年02月08日

【余生私語録】第11回─<哀悼> 能登地震による犠牲者およびジョージ・ウィンストンへ=守屋龍一

部屋の大掃除と喫煙の祟り
 拙宅のわが部屋は、足の踏み場もない散らかりようで、本・雑誌は書棚からあふれ、レコードやCDは積みあがり、書類・新聞の切り抜きを収めたファイルは散乱したまま。妻にせっつかれ年末に始めた大掃除が、やっと年明けの1月末に終わった。
 この間に、能登半島地震が起きた。被害は甚大で犠牲者は現在240人、復旧のメドも立たない。また小生も1月中旬に風をこじらせ呼吸困難に陥り、救急車で病院に運ばれる始末。肺のレントゲン写真では原因が見つからず、CTスキャンによる診断で肺気腫と判明。ショックは大きい。激しい運動はダメ、咽喉へ薬を噴霧し正しい呼吸法の練習に励む毎日となった。
 成人して40年間、日に30本の喫煙が原因と、医者から叱られる。定年後は禁煙したにも関わらず、後になっての祟りは<怖るべし、恐るべし>。

1枚のレコード「ディセンバー」
 被災地への想いや静養の気分もあって、大掃除の際に除けておいたレコードから、ジョージ・ウィンストンのLP「ディセンバー」(WHP-28005、1982年)を取り出しかける。カートリッジはデンオンのMC型DL-103、アンプはラックスL570ZS、スピーカーはタンノイ・スターリング。どれも使わなくなって久しいが鳴ってくれる。′
 ここの両面に収められた10曲、ウィンストンが弾くピアノ・ソロに乗って、秋の実りに感謝をささげるサンクスギビングやクリスマスキャロルをイメージした、抒情的で敬虔あふれる旋律が響く。
 彼は1949年2月11日生まれ。米国の大自然に恵まれたモンタナ州で育ち、高校卒業後、オルガンやアコースティック・ピアノなどの演奏をはじめたという。30歳時に新興レーベル「ウィンダム・ヒル」と契約し、モンタナ州の春夏秋冬を表現した4部作レコードを、順次に発売している。<ヒーリングミュージック>の先駆けといわれ、いまだに日本でも、CM曲に使われている。
 その彼が、なんとなんと昨年の6月4日、73歳で逝去したのを、つい最近知った。心から哀悼の意を捧げる。

モダンジャズに魅せられて
 「ディセンバー」を聴いていると、ついつい昔を思い出す。職場の仲間と音羽通りの裏にある店へ昼食を取りにいき、親子丼や鳥そぼろ丼がでてくる間、座卓を囲んでモダンジャズやPOP音楽、レコード談議に花を咲かせたものだ。
 当時、“ピアノの詩人”といわれた加古 隆の「ポエジー」(CBSソニー・28AH2110、1986年)とか、キングレコードから発売されていたブルーノートのモダンジャズの名盤、ジョン・コルトレーンの「ブルー・トレイン」(BST-81577)やアートブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーの「モーニン」(BST-84003)など、臆面もなく私は熱弁をふるったものだ。そのブルーノートが、今年2024年に創立85年を迎える。
 今に思えば恥ずかしい限りの熱弁のネタ元は、月刊「スイングジャーナル」(Swing Journal)だった。必読誌として定期購読し、ここで特選になったレコードは必ず購入、ライナー・ノーツを熟読し、知ったかぶりを発揮したのだ。だが2010年、「スイングジャーナル」は63年の歴史を閉じ休刊となった。
 学生時代には、下宿していたアパートの一室で、山水電気の安いオーディオ装置でレコードをかけ、新宿駅東口にあった喫茶「風月堂」や新宿2丁目の「キーヨ」、新宿伊勢丹裏の「ピットイン」へジャズ音楽を聴きに行った。社会人になっても、しばらく通ったものだ。

愛読の「レコード芸術」休刊
 1990年代に入ろうとしていた頃か、姉妹会社のキングレコードにいる友人の便宜を得て、リヒャルト・ワーグナー「ニーベルングの指輪」を割引で購入した。ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるロンドンレーベルの名盤(LOOC-1150/68)である。レコード18枚・黒い頑丈な箱入りだ。
 これを全曲通して聴くには、山水のオーディオ装置では貧弱とのアドバイスを受け、思い切って分割・ボーナス払いの工面をして、前述の装置に切り替えた次第。以降はクラシック音楽に傾倒することとなった。
 雑誌「レコード芸術」を夢中で読み、『クラシック名盤100選』に従ってレコードやCDを買い、必死になって聴くようになる。そして愛読してきた「レコード芸術」が、創刊71周年の昨年7月号(6月20日発売)で休刊となってしまった。残念でならない。

哀悼の気持ちに浸って
 こうした長い間の思いを噛みしめながら、もう1枚、ジョージ・ウィンストンの「ウィンター・イントゥ・スプリング」(WHP-28011)をかける。厳しい冬の寒さが続く合間にも、春の訪れが近づく。その風景や心象をソロ・ピアノに託して、「一月の月」「二月の海」ほか、全8曲が収録されている。とりわけB面の「花/草原」は、なんともリリックなメロディーが心地よく身に染みる。
 改めて73歳で死去したジョージ・ウィンストンの冥福を祈り、能登地震で亡くなった犠牲者の御霊に哀悼の意を捧げたい。(2024/2/8)
ジョージ・ウィンストンのレコード.JPG
ジョージ・ウィンストンのレコード2枚

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2024年01月01日

【余生私語録】第10回─日本を戦争ができる国へ変質させる20年前の出来事=守屋龍一

 あけましておめでとうございます。新たな気持ちで物事に取り組むには、やはり過去の闘いと歴史に学ぶにしくはない。今から20年前、なにが起きていたのか。ちょうど私はJCJ事務局長の任にあったため、クロニクルを繰りつつ私的回顧も含め辿ってみた。

自衛隊のイラク派兵
 2004年1月9日、小泉政権下、石破茂防衛庁長官がイラクへ自衛隊の派兵命令を出し、先遣隊30人がイラク南部のサマワへ向かった。自衛隊を派兵させるのは戦後初めて。憲法にもイラク復興にも逆行する暴挙に国民の怒りは沸騰した。
 その後も日本政府は、米国・ブッシュ政権のイラク攻撃に同調し続けてきた。国際社会の同意もなく始めたイラク戦争が、多くの市民の命を奪い、中東を不安定にした責任は重い。あげくに米国調査団は、イラクに大量破壊兵器はなかったと、10月6日に報告する。
 4月8日、ボランティア活動家の高遠菜穂子さん、今井規明さん、ジャーナリストの郡山総一郎さんら3人が、イラク・ファルージャ近郊で活動中、イラク人武装グループに拘束され、危険な事態に陥った。
 すぐにJCJは「3人の日本人救出と自衛隊のイラク即時撤退を求める緊急声明」(4/9)を発表し、政府に行動を促した。続けて「イラクからの自衛隊撤退を求める女性とジャーナリストの緊急集会」(5/14)、「シンポジウム─イラク報道と<言論統制>をめぐって」(5/16)など、連続した活動に取り組んでいる。

JCJが取り組んだ意欲的な活動
 6月4日には「二人のジャーナリストの死を悼み自衛隊の即時イラク撤退を求める声明」を発表した。その内容は以下の通り。
<フリージャーナリスト橋田信介さん、小川功太郎さんがイラクの首都バグダッド南部で銃撃を受け殺害されました。心から哀悼の意を表します。(中略)まさに占領米軍がイラク人全体を標的にした「掃討」作戦を展開し、ファルージャ、カルバラ、ナジャフなどで無辜の市民や子どもを殺戮しています。アブグレイブ監獄を始め、拘束したイラク人に対する拷問・虐待の実態も明らかになり、ますます米軍への怒りが増大しています。
 自衛隊は「非戦闘地域」に派遣するとしたイラク特措法にも当てはまらなくなっているのが実態です。サマワに駐留する自衛隊の「人道復興支援」も、再三にわたり中断をよぎなくされています。
 これらの事実を踏まえ、さらに日本人の犠牲を増やさないためには、占領米軍に加担・協力する自衛隊をすぐに撤退させることです。>

有事関連法案が強行成立
 6月14日、国際的なイラク戦争反対、また国内では自衛隊・撤退の大行動が展開されているにもかかわらず、国会では「有事関連法案7法案」を強行成立させた。「憲法9条」を踏みにじり、米軍の戦争に日本が参戦し、国民を総動員できる法律に他ならない。強行した自・公の与党に加え、賛成した民主党の責任は重い。
 そしてJCJのWEBコラムで、私は次のような事態を7月13日に書いている。
<「朝日新聞」の朝刊(7/13付)に「改憲派、新議員の76%」の見出しがおどり、新しく選出された参議院議員の状況を分析した結果に愕然とした。自民党を影から支えた公明党では、なんと改憲賛成派が77%から83%に増えている。憲法9条を変え、日本を戦争のできる国にする──そんなことを望んで投票した人は多くないはずだ。しかし結果として3分の2に近い改憲勢力が誕生したのだ。>
 8月13日、沖縄を襲う悲劇・米軍ヘリ墜落。普天間基地に配備されている米軍CH53D型大型輸送ヘリが、宜野湾市石谷にある沖縄国際大学の構内に墜落。日本の警察の立ち入り調査や司法の検証も拒否され、まさに「治外法権」の典型を見る。
 12月10日、防衛大綱と次期中期防衛力整備計画が決定される。パトリオットミサイルなど「弾道ミサイル防衛システム(MD)」の整備や自衛隊の海外派兵が本来任務となる。

国が率先して沖縄に米軍基地を建設
 こうして20年前を辿ってみると、米国に追従し、日本を戦争できる国へ変質させる自公政権と、それに付和雷同する一部野党との“なれ合い”が続き、武器輸出の解禁、24年度予算は軍事費8兆円と突出する事態を生み出していることがよく分かる。
 さらに、昨年12月28日、沖縄の辺野古基地建設に向け、大浦湾埋め立ての設計変更を、沖縄県民がこぞって反対しているにもかかわらず、国は代執行を強行。1月中旬にも工事を始める。憲法で定められた地方自治の理念を足蹴にする暴挙だ。
 元沖縄県議の仲里利信さんは「日本人が初めて、自分の手で沖縄に米軍基地を造ることになる」と、その本質を痛烈に突いている。(2024/1/1)
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2023年12月14日

【余生私語録】第9回─安倍派の裏金づくり・大阪万博の「カネとカジノ」=守屋龍一

裏金づくり10億円
 「しんぶん赤旗」日曜版(2022年11月6日号)のスクープがきっかけで、上脇博之・神戸学院大学教授が、自民党の政治資金パーティーの不記載問題を刑事告訴し、問題が表面化して1年がたつ。今や東京地検特捜部は、臨時国会が閉会したのを機に、安倍派議員への聴取を本格化させ、他の4派閥にも捜査のメスを入れる事態となった。
 あらためて自民党の最大派閥「清和政策研究会」(安倍派99人)の政治資金パーティーによる裏金づくりを知るにつけ、開いた口がふさがらない。時効にかからない5年間だけでも裏金の総額は5億円、いや10億円余とも言われ、所属議員の大半にキックバックされていたという。
 個々の議員が得た裏金は5千万円〜数万円の差があるとはいえ、その規模の大きさ、組織性・故意性の悪質さから見ても、政治資金規正法違反での立件は当然である。

安倍派の膿が噴きだす
 安倍政権10年の膿″が一気に噴きだしたというほかはない。アベノミクス推進、日銀と共同してのマイナス金利政策、国有地払い下げや設置認可を巡る「森友・加計学園」問題、公文書改ざん、「桜を見る会」への参加者・費用負担への疑惑、統一教会との癒着などなど、自民党内派閥の<一強多弱>に驕り、勝手放題に「政治とカネ」を使いまわしていたと言わざるを得ない。
 安倍派というが、正式には「清和政策研究会」という。由来は中国における諸葛恢の統治を<政清人和>、すなわち「清廉な政治は人民を穏やかにする」と称賛した故事から名づけたといわれる。
 だが実態はどうか。「清廉」どころか、カネに汚いだけでなく、保守タカ派の集まりで改憲を叫び、杉田水脈議員を筆頭にジェンダー平等に背を向け、国民を怒らせている。
 それなのに岸田政権は発足時から安倍派にしっぽを振り、安倍首相の銃撃事件による死という事態に「国葬」で対応し、さらに後継の安倍派幹部を、政権内の重要ポストに充てて優遇するという始末。やっと安倍派の閣僚4人・副大臣5人を交代させ、政務官6人は自主判断に任せるとした。
 とはいえ政権を、どう構成するのか、青写真すら描けていない。今や岸田政権の支持率は23%、レームダック状態に陥っている。しかも足もとの岸田派にも、数千万円のパーティー収入不記載の疑いが浮上している。

政治資金規正法の抜け穴
 政治にはカネがかかると、よく言う。この「政治とカネ」問題をクリアーにするため政党交付金の導入を含む政治資金規正法が、小選挙区制と抱き合わせで1994年に制定された。まず導入された政党交付金の実態を見てみると、国民の税金総額315億円余を9政党に交付している。日本共産党は、この制度に反対し交付金を受け取っていない。
 自民党は159億1千万円の政党交付金を受け取っているうえに、企業・団体からの政治献金24億5千万円(2022年分)を手にし、さらに各派閥が政治資金パーティーを随時開催し、億とか何千万の単位でカネを集めている。まさに「3重取り」しているのだ。
 次に問題なのは、政治家個人への寄付は禁止されたが、政党への寄付は認め、「年間5万円超の寄付者および20万円を超える政治資金パーティー券の購入者は、政治資金収支報告書に氏名・金額などの明細を記載する」と規定したため、5万・20万の寄付をこえないよう分割するなど、明細隠しのカラクリ操作がはびこったのだ。
 さらに「政党本部からの寄付」は、受け取った議員は、その使途や明細について報告する義務がない。
 まさに政治資金規正法がザル法になっていた。共産党が「企業・団体献金(パーティー券の購入も含む))の全面禁止法案」を提出しているが、政党助成金制度も廃止し、抜本的な改正が急がれる。

日本維新の会・政治資金パーティーはボロ儲け
 大阪・関西万博の開催に猛進する日本維新の会。かつてそこの代表を務め、いま私人と称する橋下徹氏が、テレビ番組で「政治とカネ」の問題に触れ、「企業・団体から一切お金をもらっていない野党はないんです」と、「デマ」を飛ばし、翌日アナウンサーが謝罪する事態となった。
 日本共産党は政党交付金を受け取らず、企業・団体献金を禁じ、政治資金パーティーも開いていないのは常識だ。それすら知らないというのでは、お里(さと)が知れる。
 それどころか日本維新の会・幹部の国会議員が開く政治資金パーティーは1回で1000万円のボロ儲けだという。リテラのWEB記事(11/30)を参照し要約すると、以下のようになっている。
<藤田文武幹事長は2022年11月23日に「藤田文武を応援する会」を開催。この日だけで1518万円の収入、会場費・食事代などの支出510万9825円、利益は1007万8215円(利益率66.3%)である。
 続いて遠藤敬・国対委員長も、2022年12月12日に「議員活動10周年記念パーティー」を開催。1227万9615円の収入、支出263万8640円、964万975円の利益(利益率78.5%)。
 さらに、使途の報告義務がないのをいいことに政策活動費が、日本維新の会・馬場伸幸代表に、2016年から2021年の5年間に約2億4300万円が支出されている。
 2022年11月に公開された2021年分の収支報告書では、「政策活動費」として馬場代表に5600万円、2022年分では藤田文武幹事長に5057万5889万円を支出している。その使途は不明なまま>

大阪・関西万博─無駄遣い止めるのがさき
 日本維新の会が必死になる大阪・関西万博は、2025年に人工島「夢洲(ゆめしま)」で開催される。だが遅々として進まない。無駄遣いと批判される「大屋根リング」に350億円もかけ、会場建設費だけでも最大2350億円、当初予算より約1.9倍になる。半年間のイベントのために、国民の税金で賄う国費まで使って運営に1360億円以上も投入する。
 夢洲へのアクセスのため鉄道建設や上下水道整備などを加えれば、万博関連事業費は8900億円、カジノ事業や夢洲の地盤補強など加えた全体では、なんと1兆2千億円にのぼる。
 万博が終わればパビリオンも大屋根もすべて撤去。一方、2030年に夢洲に開設されるカジノは未来永劫、営業を続ける。大阪・関西万博のレガシーはカジノ! そこに何百億円、何千億円もの税金が使われる。国民の納得など得られるはずがない。
 何よりも日本維新の会は、「カネとカジノ」が絡む、この無駄遣いを止めるのがさき。(2023/12/14)
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2023年11月09日

【余生私語録】第8回 ガザ市民へのジェノサイドを許すな=守屋龍一

ガザの悪夢は人類の危機
 ガザ市の瓦礫に立つ10歳くらいの男の子が、泣きながら「なにも悪いことはしていないのに…」と叫んでいる。日本の種子島ほどのガザ地区に、イスラエル軍はミサイルを撃ち込み、地上では戦車とブルドーザーが奔りまわる。その映像を目にして、私は言葉も出ない。
 イスラエル軍とイスラム組織「ハマス」間の大規模衝突から1カ月が経過した。ガザ地区の死者は子ども4237人を含む1万328人に及ぶ。国連のグテーレス事務総長は、「ガザが子どもたちの墓場になりつつあり、まさにガザの悪夢は人類の危機である」と、“停戦”を呼びかけている。
 しかし、イスラエル首相は「停戦には同意せず、今は戦争の時」とガザ攻撃をエスカレートし、イスラエルの閣僚は「核爆弾も選択肢の一つ」とまで発言した。
 イスラエルによるガザ攻撃は、いまや明白な国際人道法に背くジェノサイドと言ってよい。世界各地で「ガザでのジェノサイドを許すな!」と、抗議の行動が広がっている。

パレスチナ住民への弾圧・排除
 イスラエルは1967年以降、パレスチナ自治区として認められたヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領し、パレスチナ住民を強制的に排除しながら入植を拡大してきた。とりわけガザ地区には2005年から、封鎖の「ゲットー化」政策をとり、強大な壁を境界線に添って張り巡らし、「天井のない監獄」と呼ばれる非人道的状態を作り出してきた。
 パレスチナに加えてきた、これらの歴史的無法行為は棚上げにし、「自衛権」を振りかざしてジェノサイド攻撃を加速させることは許されない。

欧米におけるユダヤ問題
 早稲田大学教授の水島朝穂さんが、この惨状に触れて「イスラエルによる国際法違反の一方的殺戮という現実に、国際社会が一致して非難できないもどかしさがある」(11/7)と述べている。
 特にドイツでは、かねてからイスラエル批判は反ユダヤ主義ということで、イスラエルの暴虐を十分に非難できないできた。先週、ブレーメン市警察はパレスチナ支援のデモに規制を加えたのも、プラカードの表現がイスラエルの「存立の権利」を疑問視しているとの理由からだ。他の国々でも、イスラエルへの過度の忖度が、歪んだ対応につながっているという。

<ホロコーストの根>
 ユダヤといえば、私には今から7年前の9月末、ポーランドを旅しアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪ねた時のことが思い出される。ガイドの中谷剛さんは、ナチス・ドイツ軍によって、ユダヤ人ら130万人が虐殺された収容所内の遺品の数々、拷問部屋、ガス室、死体焼却炉などについて丁寧な解説をしてくれた。
 しかも彼は、単に過去の「負の遺産」として捉えるのでなく、いま世界に広がる難民排斥、「イスラム国」のテロ、さらにはイスラエルのガザ地区侵攻やパレスチナ問題にまで触れ、傍観していれば<ホロコーストの根>につながっていくと指摘された。
 ひいては南京事件が象徴する日本軍の中国人虐殺など、日本にとっても過ちを繰り返さないためにどうすればいいか、それを多くの人に考えてもらうためにも、事実を伝えていく使命感があると述べられた。
 それを聞いていた日本人旅行者で高齢男性が、「あの人はアカだね」と私に呟いたのにはビックリ。こういう御仁が、まだ日本にいるのが実際なんだと気づかされた。

『南京事件と新聞報道』の意義
 こうした思い出が浮かんだのも、上丸洋一『南京事件と新聞報道』(朝日新聞出版)を、ちょうど読み終えたばかりだったからだ。本書は1937年12月13日に起きた、日本軍の「南京占領」の実相を明かすため、今から80数年前の新聞記事を全国・地方を問わず国会図書館などで閲覧し、「記者たちは何を書き、何を書かなかったか」を追究した労作である。
 著者は<終章 記者たちの戦争責任>の項で、「『事実を伝える』という本来の使命を果たさず、事実を伏せることによって記者は侵略に加担した」と、身を切るような文章を綴る。我が身に照らして、この指摘の重さに沈思黙考するばかりだった。(2023/11/9)
アウシュビッツ収容所でガイドする中谷さん2016.9.30.JPG
アウシュビッツ収容所でガイドする中谷剛さん(2016/9/30)
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2023年10月19日

【余生私語録】第7回─猛暑を避けて憧れの<宮沢賢治>を訪ねる=守屋龍一

花巻駅前の「銀河ポッポ」
 先月9月21日は宮沢賢治の没後90年。彼は37歳の若さでこの世を去った。私にとっては、小学生時代から思春期を経て老年になっても、絶えず刺激ある思いを駆り立ててくれる作家である。
 はからずも先月末、岩手県・花巻に行く所用が生じ、猛暑の東京を離れて、憧れの<宮沢賢治>を訪れる絶好の機会に恵まれた。
 東北本線・花巻駅に降りると、銀色に光って林立するポールが目に飛び込む。先端のカザグルマが風に吹かれてクルクル回っている。「風の鳴る林」と名づけられている。シンセサイザーのBGMも流れている。
 少し駅前を歩いてみると、あちこちに賢治の童話に登場するキャラクターのミニチュアが置かれている。南側にある建物の玄関上部には、毎正時にオープンするカラクリ時計があった。「銀河ポッポ」という。
 タイミングよく扉が開いて、カラクリ舞台「銀河鉄道の夜」が、「星めぐりの歌」のメロディーにあわせて始まった。ジョバンニとカンパネラが登場し仲間たちと踊りだす。可愛いい機関車も周りを走る。3分ほどのドラマを仰ぎ見ながら堪能した。

「よだかの星」への想い
 所用を済ませた翌日からは、案内を得て宮沢賢治ゆかりの場所を巡った。賢治が愛した胡四王山(こしおうざん)の山頂近くに、「宮沢賢治記念館」がある。入口前には童話「よだかの星」を象徴するレリーフの刻まれた大きな黒御影石が立つ。
 この童話、ストーリーは<醜い鳥・よだかは、他の鳥たちから嫌われ、いじめられていた。居場所を失い夜の空へ飛び立つ。上り続けて息絶えるが、いつしか青白く燃えあがる「よだかの星」となり、今でも夜空で輝いている>。私の大好きな一篇だ。
 小学5年生頃だったか、先生に引率されて学校演劇「よだかの星」を観に行った。舞台には、横に細長い灰色の布シートが、雲をかたどるように段を重ねて伸びている。それをかき分けるように、「よだか」が必死に天空へともがいている。あのシーンが忘れられない。
 想いを胸に館内に入ると宮沢賢治の世界が、同心円状に展開されている。外側の円の壁面には、彼が携わったフィールドを5つに分けて、分野ごとに自筆原稿などの拡大写真が四角い枠内に展示されている。

<あめゆじゆとてちてけんじや>
 私の好きな詩「永訣の朝」の原稿も、その一部が写真展示されている。2歳年下の最愛の妹トシが、死の間際に<あめゆじゆとてちてけんじや>と賢治に頼む。その声を行間に挟みこむ58行にも及ぶ長い詩だ。トシが24歳で亡くなる1922年11月27日に作られた。
 「木の枝に積もった雨雪(みぞれ)を取ってきて口に含ませてくれないか」と。そして「もうけふおまへはわかれてしまふ (Ora Orade Shitori egumo) ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」と続く。帰宅して読み返し胸が熱くなる。
 私が中学2年の時、先生が「永訣の朝」を朗読してくれた。あの<あめゆじゆとてちてけんじや>の響きが、今でもよみがえる。また2018年に芥川賞を受賞した若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出文庫)のストーリーも頭をよぎる。

賢治の楽曲づくり
 館内の奥へ回っていくと、賢治の愛用したチェロがガラスケース内に展示されている。賢治が熱心にチェロを練習する日々の体験から、童話「セロ弾きのゴーシュ」が生まれた。しかも展示のチェロで、世界的に有名なチェリスト・ヨーヨーマが、「セロ弾きのゴーシュ」に出てくる「トロイメライ」を弾いていたと分かる(横田庄一郎『チェロと宮沢賢治』岩波現代文庫)。
 賢治は自ら楽曲づくりも手掛け、作詞は25曲以上、うち8つに作曲までしているとは驚きだ。 2016年に亡くなった富田勲の「イーハトーヴ交響曲」(DENON COGO62)は、まさに宮沢賢治へのオマージュだが、その中で賢治作曲の「牧歌」「星めぐりの歌」や「剣舞の歌」などが使われている。一聴してみてほしい。

詩碑「雨ニモマケズ」
 記念館から出ると、賢治が設計した花壇や日時計のある「ポランの広場」を通って、「イーハトーブ館」「宮沢賢治童話村」を巡る。そこから南西方向に車を走らせて、「羅須地人協会」跡地に建つ「雨ニモマケズ」の後半部が刻まれた詩碑を見に行く。高村光太郎の書。
 賢治は30歳を前にして花巻農学校を3月に退職、4月には宮沢家の別宅があった下根子(現在の桜町4丁目)に移り、「羅須地人協会」を開設。独居自炊で農耕生活をはじめながら、農民に化学・土壌などの講義をしている。
 「雨ニモマケズ」の詩は、賢治が38歳で亡くなる2年前、自分の黒革手帳に病臥のまま、鉛筆で11月3日に記している。その写真が記念館に展示されていた。
 詩碑の前からは「下ノ畑ニ居リマス 賢治」とある賢治自耕の地が一望できる。北上川に向かって歩いていくと、その自耕の畑には、晩夏の陽を浴びる白菜が広がっていた。

白金豚と藤三旅館
 最後は「食」と「湯」である。賢治の童話「ブランドン農学校の豚」は、農学校で飼育されている食用豚の苦悩を描いて、「命の大切さ」を教えてくれる。この童話から命名された花巻のブランド豚「白金豚(はっきんとん)」を教えられ、さっそくトンカツを味わった。一言で旨い。
 「湯」は鉛温泉。花巻駅から真西の豊沢湖近くにある。これもまた賢治の童話「なめとこ山の熊」に出てくる名湯。そこの藤三(ふじさん)旅館に泊まる。玄関の構えから映画「千と千尋の神隠し」に登場する建物を思い浮かべる。
 そこの「白猿の湯」がいい。天井の高さは10メートルもあろうか。風呂の水深は1メートル50センチ、立って入らなければ溺れてしまう。源泉が足もとから噴き出している。併設の露天風呂も豊沢川の流れがすぐ目の前。疲れを癒やした。宮沢賢治に感謝!感謝!(2023/10/19)
花巻駅前の「銀河ポッポ」.JPG
花巻駅前の「なはんプラザ」にあるカラクリ時計「銀河ポッポ」
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2023年07月31日

【余生私語録】第6回─奪うな「健康保険証」 マイナンバー強制STOP!=守屋龍一

かかりつけ医院にある箱
先日、毎日服用しているコレステロール降下薬がなくなったので、処方してもらうため、かかりつけ医院へ診察を受けに出向いた。受付で保険証と診察券を出し、診察の順番を確認し待合室に行く際、受付カウンターの隅に、見慣れない不透明なプラスチック箱があるのに気づいた。「操作は各自で行ってください」との張り紙もある。
受付の人に聞くと、ここにあるのはマイナ保険証のカードリーダーだという。この4月から義務づけられ、トラブルが起きないか、苦情が寄せられないか、不安が募るとも言う。幸いここに来る受診者は高齢者が多いので、ほとんど使われていないそうだ。
 私はマイナンバー登録をしていないし、もちろんマイナ保険証など使う気もない。いや根本的にマイナンバー制度に疑問を持ち強制に反対する一人だ。その署名にも協力している。

入力ミス2436万件の可能性
とにかく今のマイナンバー問題はひどすぎる。入力ミスは続発し、個人情報の流出に加え、別人登録や他人の情報が閲覧できるなど、全国各地で深刻な被害が広がっている。
 国が付与するマイナンバーには、一人当たり29項目のデータ入力が必要となる。これが1億2000万人分となれば、入力ミスは避けられない。通常、入力ミス発生率は0.7%といわれる。それを考慮にいれれば2436万件という膨大なデータの入力ミスが起きても、不思議ではない。
それなのに拙速なマイナンバーの導入に躍起となり、登録すれば最大2万円の「マイナポイント」を付与するという特典まで付けたが、思うように導入率は上がらなかった。
 国会でも野党から「ここに投じた税金は2兆円。この額を生活困窮者支援に回せば、どれだけ喜ばれたか。また国立大学の授業料を無償化でき、学生たちに返済不要の十分な奨学金を給付できる」などと指摘され、「天下の愚策」と批判された。
 その「愚策」の上に、河野太郎・デジタル庁大臣は、健康保険証をマイナンバーカードと紐づけ一本化して、来年の秋には健康保険証を廃止するという、脅迫めいた策へ乗り出した。

マイナ保険証を巡るトラブル
もともと国民はマイナンバーカードにメリットを感じていない。しかもマイナンバーの登録は任意で強制できないにもかかわらず、誰もが持つべき健康保険証と一体化するのだから無理がある。マイナ保険証は、まずマイナンバーカードを作り、利用登録しないといけないから、まさに強制ではないか。
しかも受診者が病院や薬局に行き受付をする時に、マイナ保険証をどう操作してよいのか戸惑う。受付に置いてあるカードリーダーにマイナンバーカードを奥まで入れ、顔認証または暗証番号(数字4桁)を入力し、本人確認を行わなければならない。その操作でエラーが発生し、医療機関の窓口職員が対応に追われるケースも数多く発生していると聞く。子供や体の不自由な人は、操作に手間取るのは間違いない。
 さらにマイナ保険証を紛失したら新規発行に最大2カ月はかかる。この間、病気などになったら無保険の扱いで診療を受けなければならなくなる。こんな厄介で迷惑なモノはない。

個人情報の営利的利用
ますますマイナ保健証への不信感が広まり、岸田内閣の支持率は28%と急降下する一方だ。これまで政府は、マイナ保険証を取得していない人には、健康保険証の代わりに有効期限1年の「資格確認書」を発行するから安心せよと説明してきた。しかし批判や反対の声が強まる中、政府は有効期限や自己申請についても見直さざるを得なくなった。
もし各自の申請がなくても「資格確認書」を一律に配るとすれば、現行の健康保険証との違いはほとんどない。しかも政府の言う「資格確認書」を発行するには、新たに234億円のコスト増が見込まれる。こんなムダな出費は不要だ。「来年秋の健康保険証廃止は止めよ」との声が強まるのも当然だ。
それでもなお政府がマイナンバーカードの普及に躍起となるのは、国民の個人情報を集約して、行政の効率化と事業への活用のみならず、民間企業にもマイナポータルを通して、国民の個人情報をビッグデータとして提供できるからだ。経団連が使わせろというのも頷ける。
 もう健康保険証の廃止は中止し、マイナンバー強制は行うな!(2023/7/31)
マイナ保険証を巡る報道と誓願署名      .JPG
マイナ保険証を巡る報道と請願署名
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2023年07月06日

【余生私語録】第5回─わが庭で鳴く「ホーホケキョ」に感激!=守屋龍一

あちこちで「ホーホケキョ」
この4日、朝10時ごろだったろうか、2階の机でパソコンを開きメールへの返信作業などをしていたら、わが庭で「ホーホケキョ、ホーホケキョ…」と鳴く声がする。風を通すために開けた窓越しに、そっと庭を見回すが、声はすれども姿は見えず。探すのはあきらめて、しばしウグイスの鳴き声に聞きほれた。
そういえば約1週間前、多摩湖へと通ずる遊歩道を散歩していたとき、多摩湖線・八坂駅近くの遊歩道沿いに繁る大きなシイの樹のテッペンあたりで、ウグイスが鳴いているのを耳にした。歩く人たちと一緒に立ち止まって、姿を探すが見つからず。
 そして3日ほど後、所用の外出で自宅から萩山駅に向かって歩く途中、地元が名づけた<ざわざわ森>のケヤキの樹でも、その隣の<萩山四季の森公園>でも、ウグイスが鳴いていた。

今年はウグイスの「あたり年」?
今年はウグイスの「あたり年」か。これまでわが家の庭にウグイスが来て鳴いたことはない。ところが数日のうちに移り来たりて、「ホーホケキョ、ホーホケキョ…」と、鳴いてくれるとはうれしい限り。まさに貴重な体験だ。
調べてみたら、すべて鳴くのはオス。縄張りを守るため1日に何百回も「ホーホケキョ」と鳴き、子育てのメスに安全を告げる。危険が迫ると「ケキョ、ケキョ」と鳴くそうだ。一夫多妻、子育てには一切かかわらずメス任せ。まさにオス天下。こればかりは時代遅れ!

餌台にくる野鳥
さて、わが庭によく飛んでくるのは、スズメは別として、体の小さいメジロやシジュウカラが多い。樹に吊るした餌台にあるカボチャの種や麻の実を食べにくる。メジロは薄緑色をして目の周りが白く縁どりされ、開花したウメやモモの木によく留まる。
 用心深いのだろう、ヤマボウシやハナミズキ、ボウガシの樹間を縫って、素早く枝渡りする。ウグイスと見間違えるが、実際のウグイスは茶褐色をしている。
いっぽうシジュウカラは頭が黒く、目の下の頬が白く、胸には黒いネクタイを締めたような姿をしている。見つけやすい。「ツツピー、ツツピー」と小さく鳴きながら、餌台からカボチャの種をくわえ、近くの木の枝に脚で押さえつけ、首を左右に振りながら皮をつつき、実をほじくりだす。
ときには一まわり大きいムクドリも庭に下りてくる。虫でも探すのか黄色い脚を伸ばし、首を上げ下げして地面をつつく。先日、小さなトカゲを追いかけ、橙色のくちばしにくわえて飛び去るのを目撃した。
 またくすんだ灰色のヒヨドリも、「ヒーヨ! ヒーヨ!」と甲高い鳴き声を発し、高い電線から大きな羽根を広げ急降下し、モモやミカンの木の間を、すっ飛んでいく。

満開のセンリョウ
モモといえば、昨年は実をつけても小さいままで全滅だった。ところが今年は、野球のボール大にまで育って紅く色づいている。その中から選んで袋掛けをした。もう少したったら、孫と一緒にモモ狩りでもしようか。農園家ではない近所の家でも、今年はモモがいいという。
目を下に向ければ、庭のあちこちでセンリョウが、ケシの実ほどの小さな黄色い花を一斉に咲かせている。こんなにうれしいことはない。
 実は昨年、マンリョウは例年通り花も実も葉の下につけたのだが、どうしたのかセンリョウだけは、花も咲かず実も結ばなかったのだ。だが今年はセンリョウが、こんなに一杯も花を咲かせている。心配が吹っ飛んだ。
秋にはヒイラギに似た葉の上に見事な赤色や黄色の実を、たくさんつけて私たちを喜ばせてくれるだろう。今から期待が膨らむ。(2023/7/6)
庭で咲くマンリョウ(左)とセンリョウ(右).JPG
わが庭で開花するマンリョウ(左端)とセンリョウ(右)
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2023年06月19日

【余生私語録】第4回─大山高原を巡る旅に老骨の身も心も洗われて=守屋龍一

霧や雲に覆われる大山
日本海に面して横に長い鳥取県、その西部地域にある大山(だいせん)高原を巡る旅に出て、久しぶりに英気を養った。私の誕生日12日と“父の日”18日を合わせ、子供・孫たちからの慫慂と援助がきっかけである。一人では心もとないので妻と共に6日間のパックツアーに参加した。
宿泊するホテルの窓ごしに標高1709メートルの大山が、まさに<伯耆富士>の名にふさわしく、美しい山嶺を見せて迫ってくる。だが高原を巡る道のりの途中で仰ぎ見ても、梅雨期に入ったせいか、すぐに霧や雲に覆われ姿を隠す。
 周辺の森はアカマツやコナラに占められ、空高くツバメが飛び交う。ときどきセグロセキレイが横ぎる。地図を見ると、大山登山口にあたる大山寺があり、さらにホテルからすぐのところに大成(おおなる)池がある。
さっそく大成池まで歩く。湧出する大山の伏流水を水源とする溜め池で、「全国ため池百選」に入っているという。農業用の灌漑水としても使われている。1周徒歩20分、池にはでかい鯉が泳いでいた。

大野池から木谷沢渓流へ
次は大山の北側・山麓にある大野池。着いたとたん、あの東山魁夷が描く御射鹿池を思わせる光景に出っくわす。池を取り巻く森の中、白い花が咲くヤマボウシの下を歩き、足元の赤い山ツツジを見ながら池の周りを半周した。これまた農業の灌漑用水としても使われる、ため池だという。
そこから西の方へ下って、佐陀川のほとりにある名水の里「地蔵滝の泉」ヘ行く。かつては湧き水が高さ5メートルほどの滝になって川原に落下していたのだが、昭和34年の伊勢湾台風で崩壊し消滅してしまった。
 ここに祀られている地蔵菩薩は、大山寺の地蔵信仰や牛馬市と重なって、参詣者がお参りするだけでなく、博労・牛馬も立ち寄って冷たい湧き水で喉を潤し、気力回復して大山寺をめざしたという。
足元の川を見ると、バイカモみたいな水草が流れに揺れている。その川淵にはクレソンやセリが群生している。灌漑用水としても利用され、この地で生産される「八郷米」は良い味だと高く評価されているそうだ。
水ときたから、奥大山に位置する木谷沢渓流の散策も触れておこう。ここは豊かな伏流水が、ブナやミズナラ、ケヤキなどの巨木の間を縫うように滝や川の流れを作る。周りには清浄な空気が満ち新緑が輝く。その美しい自然に身も心も洗われる。
 モリアオガエルが木の枝の葉に、白い泡状の卵を生みつけ、下の池の縁にはオタマジャクシがへばりついている。今にも倒れそうなササグルミの巨木の脇を歩き、空が透けて見えるオオモミジを仰ぎ、約1時間、オゾン一杯に吸い込んだ森林浴の散策を堪能した。

<だんだん>の意味が分かって
さて中日、雨も降りしきるのを押して、米子へ足を延ばす。予約した小さな屋形舟に乗っての「加茂川・中海遊覧」も、天候により中止となる。残念無念、仕方がない。
 米子城址へ登るのも展望が利かないと判断し諦める。代わりに<だんだんバス>を、従来コース・歴史コース・まちなかコースと3回も利用して、米子の景観・旧跡・寺町などを窓ごしに望んだ。1コース150円、充分に満足した。
降り際に運転手に<だんだんバス>の意味を聞くと、<だんだん>とは「ありがとう」という意味だそうだ。後でホテルの女性に聞くと、主に島根で使われ、鳥取では西部地域だけ、今の若い人たちは使わなくなっているそうだ。

郷土料理「いただき」
さて旨いものについても、私の印象に残ったものは挙げておきたい。朝食に用意されたホテルのバイキングに、「いただき」と名づけられた1品があった。油揚げに飯と野菜などが詰められている。
 これも説明を受けて分かったのだが、大きな油揚げの中に生のお米・野菜を詰めて、だし汁でじっくり炊き上げた鳥取県西部地方に古くから伝わる郷土料理だそうだ。家庭ごとの味があるという。東京にはない乙な味だ。
 後は「牛骨ラーメン」、値段は高いが鳥取和牛のステーキ、大山放牧場の新鮮な牛乳、今でも食べ飲みたくなる。(2023/6/19)
木谷沢渓流.JPG
北谷沢渓流に注ぐ奥大山からの伏流水

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2023年06月05日

【余生私語録】第3回─いま読み進める南木佳士の短編小説を巡って=守屋龍一

なぜハマったのか
昨年の暮れから南木佳士にハマっている。「なぎけいし」と読む。1988年37歳のとき「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞を受賞し、以降、数多くの短編小説を刊行している。その作家に夢中なのだ。今もなお長野県・佐久総合病院に勤務する医師で71歳になる。
ハマったきっかけは、少し説明が要る。装幀家の菊地信義さんが昨年3月28日、78歳で亡くなり、偲ぶ会が昨年12月2日に行われた。現役時代の私も編集者として、作家の本づくりに際し、装幀を菊地さんにお願いし、ずいぶんお世話になった。
そんな哀悼の気持ちのところへ、南木佳士さんが菊地さんへの感謝の気持ちを込めた追悼の一文を、新聞に寄せているのを知った。それを読むと、南木さんも自分の本の装幀は、すべて菊地さんに決めていたようだ。実は恥ずかしながら、私は南木さんという作家の作品を読んだことがなかった。

『ダイヤモンドダスト』から『阿弥陀堂だより』へ
亡き菊地さんを媒介にして、南木さんの作品に挑戦することと相成ったのが、事の次第である。まず『ダイヤモンドダスト』(文春文庫)を購入。ほんとだ、菊地信義さんの装丁が輝いている。
 ここには4つの短編が収められている。表題の1篇は、火山を望む別荘地の病院に勤務する30代看護師が、様々な過去を背負う人々の“生と死”を見つめ、やがて生命はダイヤモンドダストのように大気に昇華していくシーンへと結びつく。
読み終えてみると、一つの文章のなかに、著者の心の揺らぎや情景の変わりようを丁寧に織り込むため、長文となる筆致のせいか、読み進めるテンポが乱れがちになる。それはガマンするしかない。ゆっくりじっくり読んでいかないとダメ、そう決める。
続いて『冬物語』を読み、次の作品へ手を伸ばす頃になると、あの映画<阿弥陀堂だより>が思い浮かんだ。阿弥陀堂を守る老女の役を演ずる北林谷栄の演技が光るシーンだ。さっそく南木さんの原作を読むと、映画とはずいぶん趣きが違う。原作の方がいい。
変調をきたした夫婦ふたりが故郷の信州へ戻る。そこで出会った村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、そして難病とたたかいながら明るく生きる娘。村の生活、静かな時の流れ、豊かな自然のなかで、ふたりの心が解きほぐれていく。このリリシズムにジンとくる。
南木さんは、「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞した翌年、パニック障害を発症。その後、週末医療に臨む疲労から心身を病んだ作家兼医師として、人の“生と死”をリアルに描いた深い短編が数多くある。その行間からは、儚い命への思いやりと諦念に似た空気が漂い、人間の「闇」の深さに気づかせてくれる。

文春文庫で24冊も刊行
さて、じっくりゆっくり南木さんの作品を、続けて読もうと、本屋さんに行っても棚に並んでいない。注文しても品切れの返事ばかり。アマゾンやネットで注文するほど、急いでいるわけでもない。
 そこでブックオフを巡る際に、文庫のコーナーに眼を配り、見つけるたびに買っておく。もう16冊になる。すべて文春文庫。装丁もすべて菊地信義さん。残りも見つけ次第、購入すべく題名をメモして財布にしまってある。
流行作家や文豪といわれる作家なら別としても、失礼だが南木佳士の作品が同じ文庫で24冊も刊行されているとは驚く。そのうち12冊まで読み終えた。
 うつ病など神経衰弱を患う医者としての南木さんが、体調を回復しリハビリもかねて始めた信州の山々を巡る『草すべり その他の短篇』(文春文庫)は、私の山好きとも響きあい印象深い。
そこに収載の一篇「草すべり」は、高校時代の同級生の憧れだった女性から、浅間山に登りたいとの手紙を受け取り、40年ぶりに再会して黒斑山へ向かい、浅間外輪山の火口壁をたどる「草すべり」という急なコースを往復する。その登山を終えて疲弊しきった彼女の頭髪に、白いものがあるのに気づき医師として注ぐ優しい目線がいい。
もう一篇「バカ尾根」は、南佐久に聳える茂来山へ登った時の山行記。そこからは浅間山を始め八ヶ岳が一望できる。また南木さんが勤める病院の院長が眠る墓標もある。偲びつつ花の下で、用意した酒を飲む。そして「生きのびる」我が身を振り返る。その余韻が伝わってくる。

<嬬恋・軽井沢・佐久平>でのドラマ
かつて私の父は信濃追分から南方の軽井沢町・大原に別荘を持っていた。夏になると私は妻・子供を連れ、よく利用したものだ。北向きの裏庭からは、真正面に浅間山が左右に裾野を広げ、その全容が一望できた。昔、小学6年の長男と3歳下の次男と一緒に浅間山へ挑戦し、途中の小浅間山で断念した体験が懐かしい。
 南木さんの作品には、なんども浅間山が出てくる。念のため地図を広げてみると、なんと浅間山から北に16キロ行くと、南木さんが育った群馬県嬬恋村三原に至る。そして反対の南西方向、これまた16キロのところに南木さんの勤務・生活する佐久平がある。
南木さんの『家族』『神かくし』(ともに文春文庫)などに出てくるドラマは、全てこの<嬬恋・軽井沢・佐久平>を結ぶ地域内で展開されているのが分かる。
もう亡き父の別荘はないが、この夏の私の旅は、浅間山を望みながら、信濃追分の周辺を歩き、佐久平から小諸へと足を延ばすのはどうか。もちろん未読の南木作品を携えて。さらに欲張れば高峰温泉で一泊し、黒斑山への登山は諦めても、近くまで行って眺めるだけはしたい。これに決めた。胸がワクワクする。(2023/6/5)
南木佳士の文庫.JPG
左は既読、右は未読。他作品も少しずつ探して購読予定。
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2023年05月25日

【余生私語録】第2回─感動した<クラウンパレードIN羽村>の1日=守屋龍一

道化師12名の芸と音楽
21日、日本の道化師たちが集まり、<クラウンパレードIN羽村>が開催された。ウクライナのオデッサで開かれる国際クラウンフェスティバル「コメディアーダ」との連帯、そしてウクライナで戦争に苦しむ人たちを励まそうという願いを込めたイベントである。
このイベントに携わる大島幹雄(サーカス学会・会長)さんからのご案内で、「興味津々、まずは一見」と夫婦して駆けつけた。会場はJR青梅線羽村駅から徒歩12分、宗禅寺・駐車場に設けられた水族館劇場・特設テントが舞台だ。
 登場するクラウンは総勢12名。パントマイムあり、一輪車乗りあり、マジックあり、ジャグリングあり、クラリネット他が奏するジンタ音楽あり、皆それぞれ日本や世界各地での大道芸で磨いてきた技とパフォーマンスが披露され、会場は大きな拍手と笑いの渦に包まれた。

香山ひまわりの想い
その中でも惹きつけられたのが、香山ひまわりの舞台だ。太っちょの彼女が、少年に扮して一輪車に乗って登場する。鼻は赤く橙色の帽子をかぶり、手に「1輪のひまわり」をもち、吊りズボンに短いチョッキを付け、コミカルなパフォーマンスを繰り広げる。
 すべてパントマイムで通し、ジャグリング、マジックなどを披露。時にはうまくいかず一輪車から落ち、泣きべそをかくシーンに、かぶりつきの席にいた私は、おもわず「泣かないで」と声を出してしまった。
そして終わりに向かう段階で、香山ひまわり演ずる少年が、手に持った「1輪のひまわり」から種を取って蒔き、大事に水をやり成長を見守る。そして花が咲き種も実り、その種を一粒ずつ取って、会場の観客に投げ入れる。最後の一粒を自分の背後に投げると、頭の上にパッと「1輪のひまわり」が咲いている。何かジーンと来る素晴らしいエンディングだ。

「ひまわり」とウクライナ
「ひまわりの花」はウクライナの国花。いまロシアの軍事侵攻に対する抵抗の象徴ともなっている。ヴィットリオ・デ・シーカ監督、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演ずる映画「ひまわり」のシーンが浮かぶ。
 あの、一面にひまわりの花が広がるシーンだ。そこはウクライナの首都キーウから南へ500キロほどのヘルソン州で撮影されたと伝わる。だが、その後の調べで正しくはキーウから東へ約270キロのポルタワ州だったことが判明している。今はどちらもロシアのウクライナ侵攻で大きな被害を受けている。  
ウクライナ・ゼレンスキー大統領が、21日、広島でのG7サミットに急きょ出席というタイミングで、香山ひまわりのパフォーマンスは、日本とウクライナを結び、世界に戦争の愚かさを訴える二重の深い意味を持つこととなった。

<ジンタらムータ>の音楽
もう一つは舞台を盛り上げた音楽である。プログラムの半ばから登場した<ジンタらムータ>が奏でるジンタ音楽のすばらしさ、これは忘れられない。
 クラリネットがリード役になり、チンドンと小太鼓、バイオリン、アコーディオンが伴奏する4重奏、こぎみよいリズムが私たちの気持ちをかきたてる。道化師に捧げる曲というが、自然に体が動き、手で太ももを叩いてしまう。終演後、曲名を聞いたら「ある道化師の週末」と教えてくれた。
この<ジンタらムータ>、どういうメンバーなのか、まったく知らず。翌日、ネットで検索したら、なんとなんとスゴイ経歴と活動をしていることを知り、ビックリ仰天。
 クラリネットの大熊ワタルをリーダーに、チンドン楽器のこぐれみわぞう、バイオリンorマンドリンの関島種彦などで構成し、2004年から活動する音楽ユニットなのだ。
しかも「原発やめろ!」デモ、反貧困パレード、圧政と闘い平和を願う世界の人々に連帯する行動など、街頭でのサウンド・デモの先頭に立って、隊列を鼓舞してきた。
 なかでも異彩を放つのが、こぐれみわぞう。彼女は新世代チンドンの旗手としてダイナミックかつ華麗な演奏で注目されているという。終演後、彼女と交わした会話も無知マル出し、汗顔の至り、恥ずかしい限りだ。

羽村上空を飛ぶジェット戦闘機
そして、その日、福生市・横田基地では「日米友好祭」と謳うものの、日米の軍事力を誇示するイベントが3年ぶりに開かれ、「牛浜」駅から長蛇長蛇の列が会場まで続いているのを電車の窓ごしに目撃した。
 ここには戦闘ヘリコプターV-22オスプレイを始め、米空軍のF-16戦闘機、超大型輸送機C-5Mスーパーギャラクシーなどが展示され、F-16戦闘機のデモンストレーション飛行も行われたという。
そういえばF-16ジェット戦闘機か、キーンと耳をつんざくような轟音を立て、私が<クラウンパレードIN羽村>の会場に入る直前の11時50分頃、上空を南から北に向けて、立て続けに2機、飛んでいった。(2023/5/25)
クラウンパレード羽村.JPG

<クラウンパレードIN羽村>の出演者たち
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2023年05月15日

【余生私語録】第1回─ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」への想い=守屋龍一

「ノッポさん」を悼む
高見のっぽさんが昨年9月10日、88歳で死去していた。その事実が彼の誕生日5月10日に発表された。なんと翌日の朝刊1面コラム欄の「天声人語」や「筆洗」を始め、翌日には「潮流」にも、追悼の一文が載った。
 私もこれを読んで、「ノッポさん」の人柄や活躍のほどを、改めて認識した次第だ。思えば息子と一緒にNHKの教育番組「できるかな」を見たことが思い出される。身長181センチの「ノッポさん」は、チューリップ・ハットをかぶり、一言もしゃべらず、相棒の「ゴン太くん」と一緒に、ジェスチャーを交えながら鮮やかに工作物を生み出す。
 その動作も含め息子は「キャッキャッ」と声を挙げていた。ノッポさんが「あ〜あ、しゃべっちゃった」と初めて口を開いたのは、1990年の最終回だったという。

ラフマニノフ没後80年
最近、私も余生が気になりはじめ、新聞の死亡欄に目が行くようになった。有名・無名を問わず先輩にあたる人の逝去には感懐を抱き、若き人の訃報には残念無念の気持ちが湧く。そして改めて先人の偉業に目を向け、その足跡について自分なりに理解を深めたく、クロニクルを繰り、ネットで検索するようになったのだから、我ながら驚く。
先日、しばらくぶりにレコード店「山野楽器」に立ち寄った。その際、あるポスターが目に入った。<セルゲイ・ラフマニノフ生誕150年・没後80年 記念コンサート>のお知らせである。演奏するピアニストの名前は忘れてしまったが、ロシアの作曲家ラフマニノフには関心がある。なんと今年はラフマニノフ(1873年4月1日〜1943年3月28日)のアニバーサリー・イヤーだったのだ。
リヒテル演奏「ピアノ協奏曲第2番」.jpgさっそく自宅の収納棚からラフマニノフのレコードやCDを抜き出し、どれを聴いてみるか思案したが、まずは「ピアノ協奏曲第2番」に絞った。名盤は数多いが、スヴャトスラフ・リヒテルが弾く 「ピアノ協奏曲第2番」(POCG-4030)をかける。
 ラフマニノフが交響曲第1番の不人気と失敗によって陥ったノイローゼの後、1901年10月27日に自身のピアノ演奏で披露し、大喝采を浴びた名曲である。70歳の生涯を終えたラフマニノフの没後2年、1945年にデヴィッド・リーン監督のイギリス映画『逢びき』のBGMに使われ、一般に広く知れ渡った。
3楽章で構成され35分弱の演奏時間である。第1楽章はピアノが奏でるロシア正教の鐘をイメージした音から始まり、第2楽章に移ってピアノとオーケストラが絡み合い、第3楽章でオーボエとヴィオラによる主題が加わり壮大なクライマックスを迎えへ幕を閉じる。

リヒテルとウクライナ
ここでピアを弾くリヒテルは、なんといってもJ.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集」全巻を奏したピアニストとして著名だが、収められているライナーノートを読むと、1915年3月20日、ウクライナのジトーミルに生まれ、クリミヤ半島の北西に位置するウクライナのオデッサ歌劇場で、オペラの伴奏ピアニストとして研鑽し、その後モスクワ音楽院に入学、ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフとも親交ができ、活発な演奏活動を行っている。
このCDは、リヒテルが最も脂がのっている1959年4月、ポーランドのワルシャワでスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演した際の録音だ。いまだに名演の評価は揺らいでいない。
 いまウクライナはロシアの侵攻により、ウクライナの首都キエフから西に130キロ離れたリヒテルの生地ジトーミルが、この3月末にもロシア軍による爆撃の被害に遭っている。(2023/5/15)
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